「彼女の空」

---国標津村シリーズ1---


「こんにちは」
そう言いながら部屋に入ってきた栗田は、僕の顔を見て掘り出し物を見つけた様な顔をしてニヤリと笑った。何か顔についているのか、と思ったがその理由は直ぐに分かった。つまりはそういう事だったのだ。彼とはそういう人間だったのだ。そしてそれに気づかなかった僕の負けなのだ。
今だから笑える。しかし、その時、僕の鼻の頭にハエが留まっていたのは事実なのだ!それも二匹!一匹ならばハエの気まぐれと解釈することもできるが、二匹となると弁解の余地がない。ハエにとって魅力的な何かがそこにあるのは明白なのだ。ハエにとって魅力的な何かとは、 概ね人間にとっては反対の価値を持つ。
栗田は一瞬にして相対的にポジションを明確化させた。鼻の頭など全く気にしていなかった僕の敗北は明白だった。それは、今から僕がしようとしていることを否定した遠回しな表現だった。それがいつもの彼の手段で、それは充分にわかっているつもりだった。すべてを四十度近い気温のせいにしたい、体中の水分が飽和し始めている。ハエが飛んで行った時、彼は追い討ちをかけるように僕が持っていたアドバルーンを指さして言った。
「ソレ飛ばすんですよね、それだけ派手な色ならば、鳥も喜びますよ」
僕ははっとした、言われるまで気づかなかった。空には鳥という先客がいるのだ、それらを刺激することは、すなわち住民を刺激することになるのだ、そうなった場合、知事が黙ってはいない・・・・




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「中止、中止!」
駐在の竹田が肩のしずくを振り払いながら部屋に入ってきた。
「雨だから、今日は飛ばせないよ、せっかく見つけてきたのにね」
竹田はそう言うとアドバルーンをポンポンと触った。窓外を見ると雨が降っていた。気温も少し下がったようだ。向かいに立っていた 栗田も窓外を見ていた。
「鳥が低く飛んでいたからな。」
そう言って、栗田は部屋を出た。
最近、国標津村は全国で唯一、住民基本ネットワークに加盟していない自治体になった。加盟していたのだが、全データの入った端末が三日前に盗まれたのだ。住民がわずか200人の村のデータなど、携帯電話にも入るくらいの量だ、わずか2メガのメモリーカードにも入ってしまう。文字データなど、どんなに増やしたところで300万画素のデジカメ写真1枚分よりも軽いデータなのだ。大きなコンピュータなど必要ないのだが、対外的な事もあるので、ジャパネットタカタで買った2Kgのノートパソコンにデータを入れ、中央から法外な値段で買わされたセキュリティソフトを稼働させながら、国のネットワークにつなげていた。


そのパソコンは、村のパソコン教室用にも使っていた。小学生からお年寄りまで、パソコンの操作で分からないことが有ると役場に来て、役場の人間からそのパソコンを使って色々教えてもらえる。パソコンはみんなが使えるように、憩いの部屋に置いてあった。住民データを狙う場合、何も外部からネットワーク経由で侵入しなくとも、警備の薄い村役場に直接侵入すれば、パソコンごと持って行くことが出来る。そして、パソコンは忽然と姿を消した。
それを盗んだのは、木村のばあさんだった。



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ばあさんにとって、住民データなど関係なく、パソコンそのものが欲しかった様だ。木村のばあさんは役場の目を盗み、白昼堂々ノートパソコンを持ち出した。いや、詳しく言うと目は盗まずにモノだけ盗んだ。普通に役場にきて、普通に世間話をして、パソコンの操作を10分くらい教わって、そのまま普通に持って帰った。役場の誰もが自然すぎて気がつかなかった。
ばあさんの孫のキヨテルが言うには、
「前日に、パソコンっていうのは何でもできるのかい?って聞かれたから、やりたい事さえあればたいていは出来るよ、って答えたら、うなずいてた。」という事らしい。
そしてばあさんはパソコンと共に行方をくらませた。
キヨテルは続けた、
「ばあちゃん、パソコン使えないし、お金も持ってないし、パソコン返したくても方向音痴だし、役場の場所が分かるようにアドバルーンを上げたほうがいいかも。前にばあちゃん、隣町のデパートでずっとアドバルーン見てたから、帰ろうって言っても、動かなかったから。」
確かに三年前に会社更生法を出した百貨店で、毎年夏に黄色のアドバルーンをあげていた。百貨店といっても2階建ての小さな店で、それでも村では一番大きいお店だった。子供の頃から、あのアドバルーンが夏の標だった。青い空にプカプカと泳ぐ風船。そういえばあれが無い夏にも自然と慣れてしまった。思い出が現在につながらず、思い出のまま、遠くに行ってしまった感じがした。
子供の頃、いつも栗田と自転車を漕いでその百貨店のおもちゃを見に行ったのを思い出した。アドバルーンを目指して一生懸命ペダルを漕いだ。
そういえば、昔は仲が良かった。
キヨテルの言うことはあまりにも突拍子がな いと思ったが、他に手立てが無いので、とりあえずそれを入手することにした。
データのことは、幸い中央には気づかれていなかった。問い合わせが来ていなかった。オタク小学生のトロン吉田くんが自前のパソコンを接続して急場はしのいでいるが、そう長くは続けられない。駐在の竹田もそろそろ捜索願いを保留するのは無理があると呟いて帰った。
僕は雨空を見ながら少し考え、やっぱりアドバルーンを上げることにした。




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黄色のバルーンは、さすがに目立つ、栗田は他の住民から問い合わせが来たらどうするんだ、理由は話せないだろ?と言っていたが、考えている時間は無い。雨ということは気圧が低く、バルーンも高くは上らない、隣町からは見えずに、ちょうど村の範囲で見えるくらいじゃないだろうか、かえって都合がいい。すぐ隣の町に住んでいる知事にバレルことを村長は心配していた。しかしその範囲内にばあさんはいるのだろうか?
僕は村内で一番高い三階建ての水道局の屋上からバルーンを上げた。
雨に濡れながら、 周囲を見回した。
1時間ほど経った頃、遠くの田んぼに立つ、木村のばあさんが見えた!雨に濡れながら、パソコンを両手に抱え、バルーンを見上げていた。とっくに帰ったかと思っていた栗田が走っていって、ばあさんをつかまえ、こっちに大きく手を振った。
ばあさんがあまりにも真直ぐにバルーンを見ているので、バルーンはそのままにして田んぼのところに行った。ばあさんはバルーンを見上げながら、
「パソコンは、本当に、何でもかなえてくれる んだねえ・・・」
とつぶやいた。あまりにも真直ぐに嬉しそうに言ったので、理由は聞かなかった。
栗田も黙ってバルーンを眺めていた。




後日、キヨテルが教えてくれた。
「ばあちゃんは、あの風船が見たかったんだって。五年前、じいちゃんが入院してた病室から百貨店のアドバルーンが見えて、あの風船、何で浮いているのかばあちゃん分かんなくて、じいちゃんも分かんなくて、何だか気持ちよさそうだねえって二人でよく見てたって・・・。ばあちゃんは毎日お見舞いに行ってて、ある日、じいちゃんの好物のおはぎを買ってお見舞いに行こうとして、バルーンを目指して歩いてたんだけど、そしたらバルーンのヒモがほどけて、空に飛んでいっちゃったんだって。それで百貨店の場所が分からなくなって・・・それでも百貨店の場所を人に聞いて、なんとかたどり着いておはぎを買って、病院に行ったら、そしたら・・・そしたら、じいちゃんが息を引き取ってて・・・・・僕は小学校にいて、駐在さんの竹田さんが学校に飛んできて、パトカーで病院に着いて、ばあちゃん、じいちゃんの手を握ってて・・・じいちゃんが、風の船に乗って行っちゃったよって・・・・・」


キヨテルは泣きながら、そんな出来事を話してくれた。
遠くでセミが鳴いていた。とても優しい音で鳴いていた。栗田は黙ってキヨテルにカルピスを差し出した。キヨテルは一気に飲み干した。僕も氷の音をカランカランさせながら飲んだ。
久しぶりに来た栗田の家のカルピスは、あいかわらず薄くて、懐かしい味だった。
いろんな事が、つながっている感じがした。



おわり